私の自責思考が育成された経緯
現在、私は長崎県の空き家再生事業をはじめ不動産にまつわるいろいろな仕事に従事しています。日々さまざまな人や出来事を経験してきました。悩んだときもその都度、原因を考え問題を解決してきました。そして2024年現在も、事業を安定的に進められているのは、私の中にある「自責思考」や「他者への理解」が大きく影響しているのではないかと分析しています。今回は、そんな私のスタンスが形成された子ども時代を振り返ってみたいと思います。
自責思考が芽生えたJリーグカード事件
いきなり時を戻してしまい恐縮なのですが、私は小学生のとき、横浜市のとある町に家族で住んでいました。そこは多種多様な人たちが集まる場所で、私の家の周辺一帯は高所得層の家庭が多く、経営者やパイロット、医師などの立派な一軒家が立ち並ぶ一方で、道路を挟んで向かい側の一帯には県営団地やアパートなどが広がっていたのです。子ども心にも2つの地域に格差を感じたものでした。
町の中心部にある公園は、どちらの地域の子どもにとっても人気の遊び場でした。私はとくに県営団地に住んでいる友だちと仲が良く、放課後になると宿題もそこそこにみんな集まり、日が暮れるまで遊んでいました。
事件が起きたのは小学3年生のことでした。当時、1袋30円くらいのお菓子のおまけについていた「Jリーグカード」が大流行。私も夢中になり、お菓子をあまり食べさせたくない親をうまく説得しながら必死に買ってもらい、地道に150枚ほど集めました。子どもにとって150枚を貯めるのは容易ではありません。いうなれば宝物です。しかし友達と遊んだ帰り、大事なJリーグカードを公園のベンチへ全部忘れてきてしまったのです。ハッと気づくまでものの数十秒だったと記憶していますが、急いで公園に戻るとすでにカードは影も形もありませんでした。
「誰かに盗られてしまったんだ……」そう思うと悔しくて悲しくて、盗った誰かがわかればつかみかかりたい気持ちで、家に帰りすぐ母親に打ち明けたのです。
すると、返ってきた答えはとても意外なものでした。
「え~、なくしちゃったの?」と驚きながらも、「そんな大事なもの、忘れていっちゃダメじゃない」と言われたのです。
……私は一瞬きょとんとしていたと思います。そして次の瞬間、自分の中にあったネガティブな感情もストップしていました。
ああ、そうか。どんな経緯があったにせよ、結果として自分のJリーグカードは手元にない。その原因は、置き忘れてしまった自分にある。ただそれだけなんだな。
親の言葉に「確かに、それもそうだよな」とすごく腹落ちしたのです。「誰かが悪い」と責める前に、自分にも非があるということに気づいた瞬間でした。
しかしこの話は後日談があります。
次の日に公園に行くと、なんと見覚えのある大量のJリーグカードで遊んでいる友達がいるじゃありませんか!(笑)。ああそのカードのしわ、間違いなく昨日置き忘れていったぼくのJリーグカード……。しかし私は「それ俺のだぞ!」とつかみかかることはありませんでした。考えてみれば、その友達は経済的な事情で自由に物を買ってもらえない家庭であることも知っていたのです。だからというわけではありませんが、私は「まあいっか」と何事もないようにふるまい、その子といつもどおり一緒に遊びました。まだ10歳にもならない子どもにとってかなり衝撃的な事件でしたが、今思えばこの日から自責思考が自分の中に芽生えていった気がしています。
幅広い交友関係が形成したもの
そんな多感な小学生時代を経て私は地元の中学へ進学。仲が良かった友達の中には、素行が少し悪めのいわゆる”不良”も多くいました。子どものころはみんな同じように遊んでいても、中学に上がると、ボタンの全部取れた学ランと幅の太いズボン「ボンタン」に身を包む。不思議な感じでしたが、私はとくに気にもなりませんでした。しかし周りの友達からは、怖がられ避けられる存在になっていったのです。とくに高所得層と呼ばれる子どもたちは、親から指導されていたのでしょう。彼らと意識的に関わらないようにしていました。
私も、三児の父となった今なら、当時の親たちの気持ちがよくわかります。「何かトラブルが起こってからでは遅い、近づかないでほしい」しかし、当時の私の親は違いました。もしかしたら内心は関わらないでほしいと思っていたのかもしれませんが、基本的に私の交友関係は私にまかせて自由にさせてくれたのです。
ですが一方で、彼らが行う悪事には関わりたくない気持ちがありました。例えば、友だちのものを盗んだりいたずらをしたり……。私はいくら誘われても加担しませんでしたし、彼らもまた、執ように悪事に誘ってはきませんでした。だからこそ「こういう人たちに隙を見せたら悪いことが起きる」「自分の身は自分で守るしかない」と感じたものです。
もちろん、悪事を働く人が悪いのは確かです。しかし過去の経験も踏まえ、悪いことをされる側にも何かしらの原因があると考えるようになりました。
さらに、世の中の人たちとうまく付き合っていくには、まずその人を理解すること、適度な距離感をとること、そして危機管理が必要だということも、幅広い人間関係を通じて学ぶことができたのです。この原体験が、今の自分の思考や行動につながっていると実感しています。
あらためて思う子どもが育つ環境の大切さ
親が子どもだった私を自由に育てられたのは、家が公園の近くにあったことも大きかったのかなと今になって思います。いつも遊ぶ声が家の中まで聞こえていましたし、ベランダに出れば遊んでいる様子が見られる。何かあればすぐ駆けつけられる。その状況に親も安心して「いってらっしゃい」と送り出してくれたのだと思います。
今になって思います。経済的に裕福な子もそうでない子も、勉強ができる子もできない子も、多種多様な子どもたちと関われたことは、大人になって多くの恩恵をもたらしてくれたのだと。
社会に出れば、本当にさまざまなバックグラウンドを持つ人と出会います。とくに私は空き家事業をするようになってから、「家を手放す」「家を手に入れる」という人生の大イベントを決心する方たちの節目に立ち会うことが多くなりました。良くも悪くもお客様にはいろいろな事情があります。そこでいい、悪いとジャッジするのではなく、大切なのは「その方が今後豊かに過ごしていただくためにはどうすればいいか」その一点だけです。
一方で、子どもを持つ親となった今、周りの親たちからは「自分たちと同じような所得層、教育レベルの家庭が集まる地域で子どもを育てたい」という声を本当によく聞きます。確かに、自分と似た人たちとの付き合いはストレスやトラブルが少なく楽かもしれません。しかし、子どもたちの世界は確実に狭くなるでしょう。
社会に出て、いざ今まで出会ったことのないようなタイプの人間に出会ったら、免疫がないため戸惑ってしまうことでしょう。例えば少し悪口を言われたくらいでへこんでしまったり、クラスや学校を巻き込んで大事にしてしまったり……。慣れていないのですから、ある意味当然かもしれません。それは長い目で見ると、子どもにとってデメリットでしかない気がするのです。
いろいろな人と付き合い、清濁あわせのむような経験は、他人の考えか価値観を知るチャンスでもあります。単純かもしれませんが、さまざまな人の気持ちがわかると、多様な商品を売ることもできるのではないでしょうか。ビジネスの発展にもつながるはずです。
まとめ
今回は、私の思考のルーツを探るべく子ども時代を振り返ってみました。
住む場所、特に子どもが育つ環境は思考を育む上でもとても大事であると、あらためて強く感じています。今は、どちらかといえば似たような人がたくさんいる地域に住んでいます。ですから、自分の子どもには習い事に通わせるなど、学校や近所以外のコミュニティを作ってあげることも意識しています。
大人もそうですが、ずっと同じ世界、同じ考え方の中だけだと思い詰めてしまいがちです。たくさんの居場所があれば、ある場所では否定された意見が、他所では肯定されるといった体験もたくさんできるはず。世界は広いのです。子どもたちも、できれば大人たちにもこうした考えが広まればいいなと願っています。